戻るのだ

 その街には2本の坂道があった。

 1本は住宅街を突っ切って伸びる、一直線の長い坂。通称「裏の坂」。
 下から見上げると首が痛くなりそうな……大げさかな? とにかく歩いて登るのもきつい、急な坂。
 私はその坂を、なぜか自転車で上っている。
 一漕ぎするたびに前へ、そして上へと進んでいるはずなのに、いつまでたってもてっぺんに着かない。
 でも何度も通った道だから、目印のポストや、家の形とかで大体の距離は分かる。
 そしていつも通りがかると吠えてくる犬。ここでやっと半分てところ。
 もう半分? まだ半分。
 坂道を上るには勢いが大事。平地で溜め込んでいたスピードは、上るにつれて落ちていく。
 だから、今までの半分に比べて、これからの半分は3倍きつい。
 正直、ここで降りて、押して歩いちゃおうかなって思う。
 そう毎回思うんだけど、私は何かに取り憑かれたように、ペダルから足を下ろさない。
 冬が終わったばかりだというのに、すっかり全身汗だく。
 額から流れた汗が目に入るけど、ハンドルから手を離す余裕なんかなくって、
 目をしばたたかせ、首を振って追い払う。
 乾ききった喉は水分を、肺は酸素を激しく要求し、踏み込む足も悲鳴を上げている。
 そのくせ私の相棒は、涼しげに銀の車体を煌めかせている。
 バイクだったら私の代わりに走ってくれるのに、この子は逆に私に労働を要求する。
 結構高かったのにな……あはは、よく考えたらバイク買えるや。
 免許持ってないけど。
 バカなことを考えているうちに、遠くに見えていた頂上は、確実に近づいている。
 だけど意地の悪いことに、この坂道はラスト20メートルで、一段傾斜がきつくなっていた。
 だからといって、ここら辺までくるともうやめるわけにはいかない。
 体の中に溜め込んだ最後の力を振り絞って、力強くペダルを踏み込む。
 小さな車が苦しそうに喘ぎながら、私の横を通り過ぎる。ちょっとした拍子で、ころんと後ろにひっくり返りそう。
 お互い大変だよね、頑張ろうね。
 そう話しかけるんだけど、彼は素知らぬ顔でゴールを通過。坂の向こうに消えていく。ちょっと悲しい。
 残り10メートル。5メートル。3メートル。あと、一漕ぎ。
 もう、ゴールしてもいいよね。
 なんてどこかで聞いたセリフを呟きながら、私は見えないゴールラインを通過。
 ……やっとついた。
 私は大きく息を吐いた。
 今まで私を引っ張っていた見えない力から、ようやく解放される。
 太腿はぱんぱんで、膝はがくがく。ハンドルを握る手も強ばっている。
 ハンドルを左に切り、僅かな傾斜に任せて、崖っぷちに面した公園に自転車を滑りこませた。
 ペダルから下りたつま先が、だらしなく地面を擦る。
 こつんと、公園の隅っこに埋められた、大きいタイヤにぶつかって停止する。
 ……疲れた。
 ハンドルに覆い被さるようにして寄りかかり、フレームに取り付けたドリンクホルダーに手を伸ばす。
 ボトルを持ち上げるのもかったるいけど、それ以上に乾いた体は水分を要求する。
 くわえたストローを通して、甘く、微かに酸っぱい液体が喉を潤す。
 疲れた全身に染み渡ってゆく。
 あー……生き返る。
 一息ついて、もう一啜り。
 ようやく私は顔を上げる元気が出た。
 顔を上げた先に、なにがあるか分かっている。それでも、何度見ても見飽きないものがそこにある。
 広がっている。
 私の街が。

 フェンス越しに見える、いつも歩いている街の、少しだけ角度の違う風景。
 手前の森が、まるでミニチュアのような街を囲んで、緑で飾っている。
 毎朝乗り込む電車の駅。通い慣れた通学路。よく帰り際に覗くお気に入りの店に、住宅街の色とりどりの屋根。
 道行く人々がちょこまか動いている。車も消しゴムより小さい。数珠繋ぎになって、走ったり止まったり。
 目を凝らせば、もっと遠くに私の学校も見える。山も見える。天気が良ければその隙間に海だって見える。
 なによりも、空が、雲が、大きく広がって見える。
 どこまでも遠くに、どこまでも高く。
 永遠に続いているんじゃないかと思うような、青く透き通る空が。
 注ぐ光があんまり綺麗で、目が少し痛くなる。ぱちぱちとまばたきして、目を細めて、遠くを見る。
 ずっとずっと、流れる雲を視線で追い続ける。世界の果てまで流れて消えるまで追って、次の雲に。
 形を変えながら遠ざかってゆく雲たちを見送る。
 ん……上ってきて良かった。
 本当に、そう思う。
 別に苦労して上る必要はないんだけど。

 
 風が通りすぎ、私の体から汗と体温を奪ってゆく。
 ぶるっと体が震えた。少し気持ちいいけど、まだまだ冷える季節だし。
 タオルで汗を拭って――ほんとはシャツも着替えたいけど、さすがにそれは無理。
 ドリンクボトルを半分空にして、栄養補給でチョコを一囓り。
 軽く全身をほぐし、愛用のグローブをはめ直す。
 そして私は、もう一つの坂に挑む。
「裏の坂」の頂点から、右に曲がれば高台の住宅街。
 左に曲がれば、切り崩した崖に沿って、駅前に繋がる長い下り坂が伸びている。
 通称「表坂」。「表の坂」じゃなく。
 駅前から見えるからこっちが「表坂」で、山に隠れているからあっちは「裏の坂」、らしい。
 そしてその「表坂」。右は切り立った壁。左は切り立った崖。
 その合間に刻まれた、直滑降オンリーのジェットコースター。
 勾配の角度なら、「裏の坂」に勝るとも劣らない。距離も一緒で、ざっと百メートルちょい。
 坂が終わったところで直角に曲がって、すぐ先の国道に繋がっているけど、
 その割にはこの時間の交通量は極端に少ない。
 それでも一応、誰も来ないことを確認して、私は軽く地面を蹴った。
 ペダルを踏み込む必要はない。地球に引かれて、勝手に少しずつ加速していく。
 さっきまでの怠惰な自分を反省するように、私の相棒はスピードを上げる。
 なにもしてないくせに……まぁいいや。
 風が流れる。風景が後ろに飛んでいく。髪の毛が舞い上がって、吹き飛びそう。
 ふっとハンドルから手が放れた。
 飛び降り自殺ってこんな感じなのかな? と思いながら、私は両手を広げて加速してゆく風を受け止める。
 ちらりと左に視線を送ると、街もゆっくりと後ろに流れてゆく。
 ちょうど同じ速度で鳥が併走している。翼をぴんと伸ばし、風を切って飛ぶ。
 なんていう鳥だろう? 彰だったら知ってるかもしれない。
 その姿があんまり綺麗で、手を伸ばそうとしたら、体を傾けて街の方向に流れていった。
 気づけば並んでいるガードレールは、恐ろしいほどの速度で後ろへ走っていた。
 こんなことしていたら、いつか死ぬかもしれない。そう、ぼうっと鈍い頭の隅で考えながら――
 ガタンッ。
 地面の突起で前輪が跳ねた。
 慌てて両手がハンドルを掴む。一瞬汗が引く。恐ろしいほどの速度で迫ってくる坂の終わり。
 その先は直角の曲がり角。真っ直ぐ進めば白いコンクリートの壁が待っている。
 無意識にブレーキを引いていた。急激にスピードが落ちてゆく。
 キキーーッ、と悲鳴のような音を立てながら、私の相棒は坂の終わりぴったりで止まった。
 小さなため息が漏れた。残念なような、ほっとしたような。
 安全装置の壊れかけたジェットコースターはおしまい。
 ブレーキを握りしめた両手を眺める。
 そこには誕生日に冬弥からもらったグローブがはまっている。
 ……私、まだ死にたくないみたいだ。
 そんなことを確認するために、こんなバカなことをしているのかもしれない。


 私はそのまま自転車を走らせていた。
 特に目的はないけど、なんとなく。自転車に乗るのは好きだし、散歩も好き。
 そう思っているのはほんと。だけどそれ以外の理由があるのも、私は知っていた。
 ……素直じゃないなぁ。
 適当に自転車を走らせているようで、いくつかのポイントを確実に通過している。
 そのうちの一つ、某アパート前。狙い澄ましたように出てくる見慣れた人影。
 なんだろうね。飛び込むみたいに今度はブレーキを引かない。
 ギリギリになって、驚いた顔の冬弥を見て、ようやく私はブレーキを引いて、ハンドルを切る。
 バランスを失って、アスファルトの上に転がる私と相棒。いたた……。
「はるかっ! またお前か!」
 冬弥は怒ったように、少し申し訳なさそうに怒鳴る。
「ん、また私。あはは」
「まったく……気をつけろよ。平気か?」
「んー、ちょっとでこぼこかも」
 相棒はこんなことを繰り返すうちに、あちこちへこんでいた。
「自転車じゃなくてな」
「分かってる」
 うん。分かってるけど、確認したくて。
「ほら」
 ぶっきらぼうに伸ばされた手を掴んで、私は立ち上がった。
 グローブ越しに触れる冬弥の手は、昔握ったときより、かなり大きくなっている。
「ありがと」
 照れくさげに横を向く冬弥が、なんだかおかしい。
「冬弥、時間ある?」
「え? あるけど」
「散歩。行かない?」
 冬弥は少し悩んで、そしてあきらめ混じりのため息をついた。
「……まあいいや、つきあうよ」
「よかった」
 私は自転車を挟んで冬弥の横に並び、一緒に歩き出す。
 頭の上を、短い羽ばたきを残して鳥が通過した。
 空を掠める白い鳥の残影。ひょっとしたら、さっきのと同じ鳥かもしれない。
 鳥は西の方、赤らみ始めた空に、溶けるように消えていった。
「空が赤いね」
「そうだな」
「綺麗だね」
「ああ」
 少しだけ言葉を変えて繰り返される、いつもと同じ、なんでもない会話。
 色を変えても、日々が過ぎても、いつもと同じように綺麗な空。
 空が毎日そこにあるように、私と冬弥はなにも変わらない。
 きっと、それでいいんだと思う。

 

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